王子様は歌う。〜I love you more than anyone else.〜



あの夜は三月も半ばなのにやたらと冷える、きれいな満月の晩だった。

その夜、朱雀と遥奈は無言で夜道を歩いていた。
次の日に大きな集会を控えていた生徒会の仕事で、21時を越してしまったのだ。
さすがにそんな時間に女の子、しかも後輩を一人で帰すわけにはいかなくて。
朱雀は断わる遥奈を押しきり送っていった。

その頃の朱雀と遥奈はどこかギクシャクしていた。
そんな状態で当然会話が続くわけもなく、二人はただ無言で歩き続けた。

それからしばらく歩いて、突然、遥奈が寄り道をしてもいいかと言い出した。
彼女は道から少し逸れて歩いていった。そして彼らはあの光景に遭遇した。

道から少し外れた河原。そこには、大きな垂れ桜の木があった。
もう何十年、いや何百年そこに立っているのだろうか。
長い枝は弧を描きながら垂れ、淡いピンクの花びらは歌うように風にそよぐ。
きっとあの場所で、様々な景色の移り変わりを見てきたのだろう。達観した優しさに溢れていた。

その夜はちょうど、今日のような白い満月の夜だった。
月の光に照らされる中、起こった風が木にいたずらをして…。
桜吹雪が起こった。

朱雀は歩くことも忘れ、茫然とその様子を見つめた。
この世のものとは思えない光景だった。まるで別世界にいるような錯覚を覚えた。

しばらくして彼はようやく遥奈の存在を思い出した。すっかり忘れていた。
しかし、振り返った彼を待っていたのは、初めて見る柔らかい遥奈の笑顔で。
遥奈は朱雀に見られていることに気づくと、はにかんだように笑った。
「送ってもらったお礼です」と小さな声で言いながら。

それは胸を鷲掴みにされた瞬間だった。初めて見た、素のままの表情が心に焼き付く。
そして朱雀も動揺を隠せないまま、何故か微笑みを浮かべていた。









朱雀はただその場所に向かって走っていた。
なんの根拠もない。しかし、遥奈はそこにいると、なぜかそう思ったのだ。

闇が深くなる。ただ、月の光だけは健在だった。
記憶の通り遥奈の通学路から少し逸れる。そのまましばらく行くとそこはあった。

懐かしいその河原には一年前と同じように桜の木が堂々と佇んでいた。
ただ一つ違うのは、その枝にはまだ花びらはないことだ。蕾が春を待ちながらじっと寒さを堪えている。
そしてその下に見慣れた小さな後ろ姿があった。朱雀足を止めずに叫んだ。

「清水!!」

遥奈の背が驚いたように揺れる。
そして彼女が後ろを振り返る前に、背後からその小さな身体を腕の中に閉じ込めた。

「やっと、つかまえた…。」

囁くように掠れた声が遥奈の耳にかかった。彼女の耳が闇の中でもわかるほど赤く染まる。

「か、会長…?」

未だ何が起こったのかわかっていないような遥奈の反応に、胸を握られたような感覚が襲った。
こんなにも愛しい存在だったことに初めて気がついて。朱雀は腕の力を強めた。

「もう、会長ちゃうよ。ただの紫藤朱雀や。」

もう二度と会えないかと思った。
でも、もう一度会うことができた。それだけでも胸が詰まるほどの感情が止めどなく押し寄せて。
朱雀はただ遥奈を抱き締めることしかできなかった。

静寂が二人を包んだ。そしてそれを先に破ったのは遥奈だった。

「…わからないんです。」

「清水?」

「どこに行くのか、わからないんです。」

遥奈がポツリと呟いた。
本当は転勤ではなく夜逃げで、行き先はわからない。わかっても、それを誰かに教えたり連絡することはできない。
だから…。

「もう先輩にも、会えない…。」

声に嗚咽が混じって、遥奈は肩を震わした。その時、後ろで空気が揺れた。

「遥奈。」

初めて呼ばれた自分の名に、遥奈は嗚咽を止めた。今、なんて?
振り返ると、すぐそばに朱雀の整いすぎたきれいな顔があった。でも、一番きれいなのはその澄んだ目で。
唇に息が掛かるほど、近い…。

「大丈夫。また、会える。オレが、君を見つけるから。」

約束や。朱雀はそう呟くように言うと、遥奈にそっと顔を寄せた。
唇に触れるだけの口付け。
まるで朱雀の優しさと決意を表すような。遥奈の頬を一滴の涙が伝った。

やがて朱雀は始まりと同じようにゆっくり離れていった。そして今度は正面から遥奈を抱き締める。

「せ、んぱい…。」

「オレはまだまだガキや。自分の気持ちすら気づかんった大馬鹿者や。
…惚れた女一人守ることもできへん未熟者やねん。」

でもな。朱雀の声は静かに、しかし動かぬ決意を持っていた。

「オレはもっと大きくなる。それでいつか、おまえを見つけ出す。絶対に。」

その言葉に迷いはなかった。
途方もない約束。それが果たされるのは何年後になるだろう。
いや、それ以前に本当に守られるのかすらわからない。
でも、そんなことどうでもよかった。ただ、今の彼の気持ちだけで幸せだった。

朱雀の長い指が顎にかかる。

「先輩…。」

「名前で呼んでくれへんか、遥奈。」

再び呼ばれた名に、止まることを知らない喜びが溢れて。

「朱雀、先輩。」

近づいた顔に息が止まる。唇の動きが感じられる距離で朱雀は囁いた。

「遥奈、愛してる。」

私も…。そう呟いた言葉は彼の唇に呑み込まれて消えた。









遥奈の後ろ姿が闇の中に消えていく様子を、朱雀はただ見つめていた。
遥奈はもう振り返ることはなかった。当然朱雀ももう呼び止めることはなくて。

遥奈の姿が完全に消える。
その次の瞬間、朱雀は桜の大木を殴った。手の甲が痛い。しかしそんなことは気にならなかった。
彼は何度も何度も拳を振るった。

何本もの棘が刺さり、幹に血の跡が残り始めた頃、彼の手はようやく止まった。
そして代わりに、自分の額をそこに押し付けた。喉から抑えきれなかった嗚咽が溢れる。
その夜、初めて流した涙だった。








〜I love you more than anyone else.〜